自分の気付きと振り返り(76)「技術の進歩と人間の進歩は正比例ではない」

日頃の仕事での気付きや、本やメディアなどの言葉で自分の心に留まったもの、自分の振り返りの言葉などを取り上げて、備忘録的に書き留めます。
今回の言葉は「技術の進歩と人間の進歩は正比例ではない」というものです。
今の私達は、最新の技術や情報を上手く扱えていないと感じています。
「情報」を例に挙げてみます。インターネットで個人が全世界と繋がり、コミュニケーションの範囲が膨大となりました。SNSの数字を始め、瞬時に自分と他者を比べられる環境に身を置かざるを得ない状況にもなりました。AIの進化が目覚ましく、人間が行っていた仕事をも肩代わり出来るようにもなりました。そして、それらの情報と情報インフラに、私達は経済的なコストがほぼ無い状態で利用が出来てしまえる環境にあります。
振り返ってみると、かつて「最新の情報」は「自分で取りに行く」という事が当たり前でした。しかし今は、「自分に関連する情報をアルゴリズム化されて絶えず広がり流れ続ける」のが当たり前になりました。人間の意思決定におけるプロセスや行動理論を理解した上で流れるこれらの情報に対して、私達は「自分で選び取る」「情報を正確に理解し、使いこなす」という意思が曖昧になり、受動的になっています。そして、そのこと自体をあまり意識する事無く過ごせてしまうので、凄い世の中になってきた!と改めて自分の置かれた状況に驚きと恐怖を感じます。
情報を上手く扱えていない、何ならその膨大な情報量に疲れてしまうと感じていた私が、情報と自分の置かれている現状を言語化しようと思えたきっかけの言葉が「技術の進歩と人間の進歩は正比例ではない」という言葉でした。
「技術」を例に挙げてみます。人間の目には8Kの解像度の映像までは認識できるが、それ以上の高解像度を技術的には作れるも視認されないというのは有名な話です。人間の能力の進歩は、技術の進歩と同じスピードにはなり得ません。技術が先に行き過ぎてしまうと、人間がそれを使うには追いつけないのだと改めて感じます。
今の私達は技術の進歩で、使わなくなった、または失われた人間の力も多いかもしれません。どの分野においても「職人技」はその最たるものかもしれません。私はその職人技がとても好きで憧れます。私も仕事は職人であれと思っています。でも、継承されないと勿体ないとも思います。
仮に技術の進歩がそれらの職人技を再現出来るようにし、その再現過程において、どれほどの緻密で繊細な技が人の手で行われていたのかを解き明かしながら進めるのであれば、「人間の力の凄さと素晴らしさ」が改めて、技術の進歩により適確な情報として人間に理解されるかもしれません。
進歩した技術と、その技術を駆使された膨大な情報との上手な付き合い方を模索していく過程は、これからの私達にとって、改めて「今を生きる人間」として、モラル(道徳的・倫理的判断基準)やマナー(社会生活上の行動規範)を学ぶ機会にしていく必要があるのかなと感じました。