自分の気付きと振り返り(62)「監視と見守りは違う」

日頃の仕事での気付きや、本やメディアなどの言葉で自分に引っかかった事を自分の言葉を追加して、備忘録的に書き留めます。
今回の言葉は「監視と見守りは違う」というものです。
保育の現場や、障がい者支援の現場、高齢者支援の現場などでは、クライアント自身で生活の段取りが出来ない要保護の方を多く対応しています。その際に、支援者間で申し送りや日常の支援の場において「見守り対応して」という言葉が多く使われます。私はこの言葉を聴くと、「監視してと言いたいのだよね」と思う事がありました。
私が所属する医療機関の現場では、日々様々な病気や事故で搬送された患者さんが治療を受けています。その中には「認知症」と診断を受けた方も多く存在し、今までの環境が変わることで混乱を来たしてしまい「不穏状態」になる方が多くいます。また、認知症と診断されていなくとも、手術後に「せん妄」という状態になり、最終的に自身の認知機能が変化・低下してしまう方もいらっしゃいます。
そのような状態になると、患者さん自身はその治療の意味自体が理解出来ない場合も多く、点滴や酸素マスク、各種モニター関係のコード類、尿道留置カテーテルなどを自分で外してしまう事も多くなります。これが続いてしまう場合は、治療が出来ないと判断され、最終的に身元引受人などの同意を得て「身体抑制」という形をとる場合も出てしまいます。医療機関のスタッフも好んで身体拘束をする訳では決してありません。しかし、福祉施設と比べると救命をする・治療を行う強制力が働く分だけ、身体拘束に至るケースが福祉施設よりも多いと感じます。
医療機関側はなるべく身体拘束に至らない様にするために、不穏行動に至る患者さんに対して「見守り」を行います。本来「見守り」という言葉は、その対象者が安全に過ごせる様に状況を注意深く観察し、必要に応じて援助やサポート(声をかけて促す、対話で落ち着いてもらう、不安要素が取り除けるように主訴の対応を行うなど)を行うことだと考えます。これは患者さん本人を見守りという時間の中から注意深くアセスメントを行い、現在不穏に至っている要素を分析し、行動を予測し、対応方法を検討して実践することが含まれます。見守りというスタンスは患者さんの理解と想像が前提の行動になるので、「見守り=眼差し」と捉えられるのだと思います。
一方で「監視」という言葉になると、患者さんへ向ける目線はスタッフから見て不都合ではないかどうかに変わってしまいます。例えば対象の患者さんに不穏行動が表れたら、その行動を「止める」か、動き回ってしまった場所からこちらが意図する定位置に「戻す」か、本人が触れていると危険性があるものを手元から「引き離す」ようになります。監視は眼差しとしての温かさの要素は無く、スタッフ自身が患者さんに対して対処をする為のセンサーの役割が中心です。そういう意味では、単純な行動として「監視=視線」というように捉える事ができます。
見守りという言葉は仕事上多く耳にし、私もこの言葉は使っています。今回改めて「見守り」と「監視」という言葉を並べて振り返った時に、「見守り」という表現の数パーセントは「監視」という要素を含んで自分自身も使っている事に気が付かされました。
今の私が出来る事は、対人援助職として「見守り」という言葉が本来の言葉の意味で私自身が使えるように改めて意識していく所から始めようと思います。スタッフ間で使用する際に、見守りという言葉で仕事の内容を安易にまとめないで、眼差しである見守りとなるように、本人理解のための具体的なアセスメントの中身を言葉にして共有する事で、スタッフ側の視点から患者視点になるようなきっかけを少しでも共有出来るように広げていきたいと振り返りました。